Moi!モーイ日記

愛犬モーイとの日々を勝手気ままに綴った日記です

「愛」について

「愛」について友人達と議論をしたことがある。

20代から30代へ移行すると世の中の捉え方が腰を据えてくる段階になり、それぞれの考え方に深みが出て面白くなってくる。育ってきた家庭環境や職業、関わっている人々の特性などによって、一人一人の「愛」の定義が違ってとても新鮮であった。

「愛」とは、自分とは決して分つことができない状態だ、と私は考えている。

ある人と関係を築いて時間を共有していくと、「好き」から「当たり前」の存在になる。「当たり前」というのは厄介なもので、その人が存在して当たり前なので存在している有り難みが鈍化するのである。

【愛しいモーイ】

例えば、母親が働きながら毎日、弁当や朝・晩御飯を作ってくれていたにも関わらず、当時はそれが当たり前だと思い、挙げ句の果てには食事の出来に文句を言うのである。母親の立場を想像すると、自分の顔面に思いっきりその食事を投げつけたかったであろう。

「愛」を知ったのは、そんな母親を亡くした時だった。

私の大学生時代に母親の病が見つかり、その数年後にこの世からいなくなった。母親の介護をしていたということもあり、当時の喪失感は自分の魂が半分死んでしまった状態のようだった。当たり前であった空気が消えると体も心も息ができなくなり、苦しく、悲しく、寂しく、勢いよく魂が萎んでいき、生きている心地がしなくなる。この気持ちを周りの人間になんてわかるものか、と周囲の人々を遠ざけて完璧な孤独になる。

ただ、生きている側の人間は生活を続けなければならないので、無理矢理にでも生きていると時間が孤独から引き上げてくれるのである。

【Hello and Goodbye 孤独】

孤独の淵から這い上がりまともに思考できる状態になった時、母親のことを愛していたと気づいたのだ。

愛した対象は自分の一部になり分離することができなくなる。そのため、愛する対象が喜べば嬉しいし、悲しめば苦しくなって自分ごととなるのである。逆を言えば、相手にそう感じないのであればそれは愛していないのである。

母親が亡くなってから愛する人を失う想いを2度としたくなかったので、何かを愛することから避けてきた。

けれども、モーイと出会ってしまったのだ。今やお互いを信頼し合い、言葉を交わさなくても何を考えて求めているか以心伝心状態である。ああ、あなたを愛してしまった。生の向こう側に行ってしまった時にはまたもや悲しみに暮れるであろう。

ただ、過去と違うのは「愛」とは何かを知り、覚悟を持って「愛」とやらを受け入れているつもりだ。存在が消えても、寂しさを携えながら愛は消えないことをもう分かってしまった。

【あなたが何を考えてるか知ってるもん】

そんなこんなで、あなたを愛してる訳ですよ、モーイさん。