過去の手紙を読み返してみた。
部屋の片付けをしていると、手紙の束がゴッソリ出てきた。中学生の時からもらった手紙を保存しているのである。両親や親戚、友人、担任の先生からが主にであり、便箋だけでなく年賀状やメッセージカードなど形式問わず残してある。
直近で見返したのは覚えていない程に遥か昔であったため、一つ一つ手紙を読むともらった当時とは違った感情に襲われた。両親、特に母親の手紙は中学、高校、大学時代の節目に子を想う愛が綴られており、今はもういない寂しさと感謝で涙が流れた。
【どうして泣いてるの?】
親から独立して生きていくと、様々な人間と関わるため価値観が急激に広がる。外の世界は自由であり、外の世界に向かえば自分も自由になれるのでは、と若い頃は猛烈に錯覚を起こしていた。結局のところ、外ではなく内の私自身に問い続けることが生きることであると気づくのだけれど、あの頃の未熟故のエネルギーといったら恥ずかしい限りである(今もこれからも完全に熟することはないが)。
内の自分が空っぽであれば外の世界ももちろん空虚になっていく。
そう教えてくれたのも母親であった。母親は偽物が大嫌いだったので、我々子ども達の前でも堂々と偽物を批判していた。「じゃあ本物とは?」と聞くと、「真っさらにカッコいい人やコト」と言っていた。その当時は「はて?」と首を傾げていたけれど、今となってはその意味を理解できる。母親が生きていたらこのようなことについて話せるのになぁ、とやるせない気持ちにもなる。
【夕日に向かって一緒に走ろうではないか!】
ただ、昔は相当に未熟だったかというとそうではなかった。
中学一年生時に担任の先生とやり取りした日誌帳には、「お金持ちと貧乏、勉強できる人できない人、運動できる人できない人、その基準で評価するこの世界を作ったのは一体誰よ!?」と書かれていた。当時も理不尽な経験をしていたからか、世界の不条理に対する疑問と怒りが綴られていた。担任の先生からは「俺もわからん。俺はそれを今も探求している。君はそのまま、なぜ?!と疑問を持って生きて大丈夫だ。」と返事が書かれていた。当時は問いに答えてくれないんだ、と突き離された気持ちであったが先生の言葉は率直で真を突いたものであると今は思える。
こうした先生のやり取りを見返して、「ああ、自分は変わっていないのだな。」と未熟で恥だと持っていた過去の自分を今の自分の一部として受け入れることができた。
【私が側にいるよ!】
そんな真面目なことを考えながら涙している私をモーイはジッと見つめて「はて?なぜ泣いているの?」と純粋に問うてくるのであった。